2009年11月22日 (日)

「横浜の歴史と文化」2日目

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 授業2日目は横浜開港資料館で。写真の旧館はかつてのイギリス総領事館で、登録文化財になっていますが、授業は新館の講堂でした。いにしえの雰囲気を感じながらの講義を受けてみたかったのですが、何でもエアコンが利かないため、今日のように冷え込んでいると、殊の外寒いとのこと。
 午前中は平野正裕先生による娯楽を中心とした都市文化のお話。江戸時代から続いた芝居小屋や映画館が、近代化した「松竹」に呑み込まれていく過程を追っていきました。「封切り」って言葉が、横浜にあったオデヲン座で始まったとは知らなかった。映画フィルムが輸入品だったことに由来する表現は、貿易港を抱える横浜ならでは。
 もう一つ、「歌」にまつわる様々なお話もあり、初代「君が代」の曲を初めて聞くことができました。前日の講義でもあったのですが、「君が代」はイギリス駐留軍のフェントン軍楽隊長が国歌の必要性を進言したのをきっかけに作られ、フェントンが作曲したものの、3年後に現在の曲に変更したとのこと。初の鉄道開通時に新橋駅の式典で演奏されたのは初代の曲で、聞いてみると荘重感はやや落ちるけど、きれいな曲って感じです。個人的には初代のほうがいい気もします。なお、君が代にはもう一つ、文部省唱歌版があり、こちらは歌詞に続きもあります。君が代に三つのバージョンがあったとはねぇ〜。
 午後は松本洋幸先生による「港を支えた運河や舟運、後背地」がテーマ。開港から35年間は桟橋や埠頭がなかった横浜港では、積み荷の上げ下ろしなどは艀が主役だったこともあり、運河が市中を縦横に走っていたそう。また、内湾貿易でわが木更津辺りとの関係も深かったと言われると、今まであまり持っていなかった親近感も湧いてきたのでした。

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2009年11月21日 (土)

「横浜の歴史と文化」

 この週末は放送大学神奈川学習センターの面接授業「横浜の歴史と文化」を受講しました。センターHPを見ると、横浜国立大学の一角にあり、船橋から京急・弘明寺駅までは1時間10分ほどで到着。しかし、HPの略図の出来が悪い(ことにしておく)ため、ちょっと道に迷ってしまったのでした。
 仕事で横浜国立大学に出かけた時にはずいぶん坂を登った覚えがあるのに変だなと思ったら、センターがあるのは横浜国立大学付属横浜中学校の辺りで、大学キャンパスとは全然別だったのです。(ノ∀`) アチャー
 2年前、「神奈川の近現代」という授業を受けましたが、個人的にはその続編というか、横浜に焦点を絞った詳論というか、そんな感じがして興味を持ったのです。
 横浜開港資料館の研究員の方々が講師で、初日は中武香奈美先生が幕末から明治初期にかけての英仏軍の横浜駐屯が主なテーマ。生麦事件を契機に、居留民保護を名目とした横浜駐屯は、わが国に外国軍が居座った史上初の例です。攘夷が叫ばれていた時代、トラブルもありましたが、英仏軍はそれほど横暴な真似はせず、自らに悪い点があれば綱紀の粛正を図っていたようでした。
 中武先生の話で最も興味深かったのは、1875年の英仏駐屯軍の撤退です。西南戦争の直前で国情が安定したとは言えない時期に、なぜ撤退したのか?
 その理由の一つが、1873年に締結された日米郵便交換条約にあるとの見方です。開国に伴う様々な不平等の中には、諸外国が日本の郵便主権を認めないこともありました。国内郵便制度が整った後も、イギリスに手紙を出すなら、横浜にあるイギリス領事館に行って、イギリスの切手をはらないとダメだったとのこと。
 前島密らが急ぎ外国郵便制度を整え、日米郵便交換条約が発効したことで、日本から米国経由でどこの国へも手紙が出せることになりました。こうしてアメリカが日本に僅かな譲歩を示したため、英仏をして強硬な立場を取り続けづらくなったことが、駐留軍撤退への引き金になったのでは、との説でした。
 少し飛躍がある気もするし、英仏側の事情を精査してウラを取らないと認められないでしょう。外国郵便制度という小さな一歩から対外不平等の解消が始まり、駐留軍撤退へと結びつける考えはなかなか面白いものでした。
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 2度目の来航で横浜に上陸したペリー。図の右側にある玉楠の子孫は今も横浜開港資料館の中庭にあります。

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2009年11月 8日 (日)

「デザインを科学する」

 昨日から2日間、放送大学千葉学習センターで「デザインを科学する」という面接授業を受講。普通は一人の先生が担当するのに、今回は千葉大大学院のデザイン科学専攻の先生7人がそれぞれの分野から多角的に講義する、珍しい趣向でした。
 工業デザインの分野は千葉大出身者の活躍が目覚ましく、今回の授業も期待に沿った充実ぶりでした。「デザインはいいけど使いにくい」「使いやすいけどデザインはイマイチ」と、僕も思うことはありましたけど、司馬遼太郎が「『悲運の名将』は論理的にあり得ない。名将は運もついているからこそ名将なのだ」と喝破した如く、「デザインのいいものは使い勝手もいい」はずなのだそうです。
 つまり、外観だけをデザインというのは間違いで、使い勝手も含めたトータルな企画をデザインと称するべきだというのが、先生方のコンセプトなのでした。
 こうした授業などをパワーポイントで進めるのはもはや当たり前のようになっています。今回、驚いたのは、受講生の答案用紙(ってほどの内容でもないけど)を回収し、すぐスキャナーで読み取って表示し、講評する先生がいらしたこと。時たま恥ずかしくはありますが、「ほかの人の考えを知ることは大切」とおっしゃっていたこの先生の講義こそ、なかなかいいデザインだったように思えます。
 2日前の不寝番の疲れが抜け切らず、睡魔との戦いでしたが、久しぶりに刺激的な面接授業でした。
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 遠くてわかりにくいけど、先生は自分の脳波の波形を使って小さなロボットを動かしています。人間工学とデザインの関わりを追究する中での、実験の一つだそう。

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2009年2月 7日 (土)

名所図会と広重

 表題の講演会を聞きに、午後から幕張の放送大学千葉学習センターへ行った。講師は国立歴史民俗博物館の大久保純一教授。100人収容の会場は満席だった。
 「広重は東海道五十三次のほとんどを現地を訪れずに描いた」と、衝撃的な話でした。日本橋や品川は写実的で叙情に溢れているのに、京都に近づくほどリアリティーが乏しくなるというのです。かつては、広重は東海道を旅して描いたというのが定説でしたが、ここ10年ほどで進んだ研究により、五十三次を描いた段階では行っていないという見解が主流になったとのこと。
 典型的なのは「庄野」。突然の雨の坂を旅人や地元の人が行き交う、五十三次の中でも一二を争う名作ですが、現地に行くと「あの坂はどこ?」って戸惑うくらい、真っ平らな所だそうです。
 では、広重はどうやって五十三次などを描いたかというと、18世紀末から19世紀にかけて発達した「名所図会」という、当時の旅行ガイドに添えられていた精密な俯瞰図を参考にしたらしいのです。いくつかの絵について分析すると、各地の名所図会の俯瞰図を基に、特定のポイントから眺めた風景を再現しているとしか思えないことがよくわかります。
 東海道どころか六十余洲名所図会まで描いているのを思えば、あの時代、全部を見て回れるはずがないとは想像がつきますが、最大の傑作からして「パクリ」が多いとはねぇ〜。ただし、この当時、「パクリ」は決して悪いことではなく、むしろパクられるくらいのほうが名誉でもあったとのこと。本歌取りみたいなものでしょうか。
 「本当は新潟じゃないの?」疑惑の「蒲原」について、残念ながら大久保先生の見解を聞くことはできませんでしたが、こういう説を耳にすると、「やはりそうか」と思わずにはいられません。
 ところで、昨年8月に歴博で「江戸の旅から鉄道旅行へ」をテーマにした特別展がありましたが、確かあの時には旅日記の紹介はあったものの、名所図会についてはあまり触れていませんでした。この衝撃的な説も紹介していればもっと興味深い内容になっていたはずなのに…。歴博も案外、縦割り組織なんでしょうかね〜。

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2008年5月15日 (木)

福澤先生ウェーランド経済書講述記念日

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 上野で官軍と彰義隊の戦いがあった今から140年前の5月15日、その騒ぎをよそに福沢諭吉は「この塾のあらん限り、大日本は世界の文明国である」と塾生たちを諭し、ウェーランドの経済書の講義を続けたという。司馬遼太郎は「花神」で「あの妙な村田(蔵六=大村益次郎)めが戦をして云々」と、この場面での福沢の心情を描いています。
 これを由来として、慶應義塾は毎年この日に、三田演説館で記念講演会を開いています。ただの一度も聴きに行ったことはありませんでしたが、慶應義塾創立150周年、彰義隊の戦いから140年、後の塾長小泉信三の生誕120年という節目が重なったこの日が公休だったので、出かけてきました。
 「三田の山を上ったのは、ひょっとして今世紀初?」などと苦笑しつつ、新緑のまばゆい三田演説館にたどりつくと、結構行列ができていました。OBばかりかと思ったら、現役の女子学生も何人かいた。我が身を顧みて感心してしまい、また苦笑。

080515_3  当然、三田演説館の中に入るのも初めて。国指定重要文化財ですから、本当は講演よりも、中に入ることが楽しみでした。ご覧の通り、内部は狭いため、直前に来た僕は2階席へ上がることに。偶然のこととはいえ、その方が自分としては嬉しく、またまた苦笑。

 旧図書館で小泉信三展を開いているのに合わせ、今回は経済学部長の塩澤修平教授が「慶應ボーイ小泉信三 気品の泉源・智徳の模範の体現者」と題して、経済学者、教育者、そして芸術やスポーツの愛好者としての小泉信三について語ってくれました。

 塩澤教授は中学生の時、小泉信三の「読書論」を読んで慶應を志望し、志木高に入ったそうです。驚いたことに、20歳の誕生日に「自分へのプレゼント」として、小泉信三全集(文藝春秋)を買って読んだとのこと。全26巻、宅配便のない時代、持って帰るのだって1回じゃ無理な分量です。だいたい、20歳の時に誰かの全集を買おうなんて思いもしなかったな。講演自体も興味深い内容でしたが、僕としては「大学の先生になる人ってのは、やっぱ違うなー」って印象の方が強烈でした。

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2007年6月13日 (水)

面接授業「日本の政治と外交」

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 9日から2日間、茗荷谷の放送大学東京文京学習センターで、表題の面接授業を受講した。
 本格的政党政治の始まりから戦争を経て鳩山内閣辺りまでが対象で、ちょうど星一や星新一氏の時代と重なる。当時の時代背景を知るのにいいだろうと申し込んだ次第、ってなわけはなく、単にこの土日はめぼしい競馬のレースがなかったからに過ぎません。
 この頃の政治知識の元と言うと、教科書と戸川猪佐武 氏の「小説三木武吉」「小説吉田学校」ぐらい。二大政党による政党政治は利権分捕り合戦で腐敗を招き、5・15事件の後は陸軍の暴走の前に政党は物も言えなくなってしまい、結局敗戦、といった時代イメージでした。
 実際はだいぶ違っていたようです。犬養毅の暗殺後、確かに多数党の総裁が内閣を組織するという政党内閣はなくなったものの、議会政治そのものは健在で、政友会も民政党もちゃんと議論はしていたのでした。ただ、互いの足の引っ張り合いに終始して墓穴を掘っただけのことで。
 受講してからの想像ですが、日中戦争は始まっていたとはいえ、昭和14年ごろまではアメリカと戦争をするなんて、議会だって考えてなかったんじゃないでしょうか。当時、自分たちのしてきたことが、太平洋戦争への道を開く原因になるなど、夢にも思わず・・・。
 今だってそう。2年先には予想もしなかった事態に直面しているのかもしれません。今起きている、今では平凡としか思えないことが積み重なることで。

 何だかやたらめったら重要法案を乱造し、「戦後スキームからの脱却」を唱える現政権を見るにつけ、こういう想像をするようなきっかけをくださった本講担当の小宮京先生に、この場を借りて感謝申し上げます。

 (写真は、伊藤若冲作の羅漢石@椿山荘庭園)

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2007年5月21日 (月)

「神奈川県の近現代」

 5月20日(日)
 放送大学の面接授業は、ほとんど各地の学習センターで行われますが、たまに例外があります。19日から受講した「神奈川県の近現代」の会場は、横浜市の中心部、馬車道沿いにある神奈川県立歴史博物館 。国の史跡に指定されている旧横浜正金銀行本店を活用した建物です。
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 ご覧ください、この偉容。近代建築で国史跡に指定されているのは、ここと広島の原爆ドームだけという、実に貴重な建築です。今回の講義は当博物館主任学芸員の寺嵜弘康先生が担当し、しかも普段は入ることのできない博物館の地下階や屋上ドーム内も見学させてくれるのです。参加しない手はありません。
 物見遊山気分とはいえ、授業は授業。神奈川県民ではない僕にとって、全く知らずにいたことがずいぶんありました。
 中でも関東大震災の被害率は、東京府よりも神奈川県の方が大きかったとは驚きでした。関東大震災というと、陸軍本所被服廠跡地の惨事をはじめとする東京の下町を中心とした火災被害がよく知られていますが、震度7を記録したのは相模・湘南地域と横浜市など、ほとんどが神奈川県だったとのこと。
 このため、倒壊や焼失など家屋の被災率は神奈川県45・8%に対し東京府24・8%、人口に占める死者の割合は神奈川県2・4%に対して東京府1・7%と、神奈川県の被害率が断然、高かったそうです。最近の研究で明らかになったことといい、地元の人でも案外、ご存じないかもしれません。
 石造で火災に強い横浜正金銀行本店では、火に追われて逃げてきた人を収容し、約200人(うち職員約130人)が耐火金庫のある地下階で火災をやり過ごして助かったものの、周囲では数百人が亡くなったとのこと。「何年か前までは、9月1日になると、博物館の外に線香を上げに来る人がいました」という寺嵜先生のお話には、惨事の記憶が80年にもわたって残っていたことを思い知らされました。

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2007年2月18日 (日)

芸能に映る「千葉」

 2月18日(日)
 昨日、今日と、放送大学千葉学習センターで『芸能に映る「千葉」』という面接授業を受講。能、文楽、歌舞伎、浪曲、講談といった伝統芸能に出てくる「千葉(=下総・上総・安房)」から、千葉が当時、どのように見られていたのかを探る、ちょっと興味深いテーマだった。講師の岡田先生はまだ30歳ちょっとの若い女性。
 そもそも、能や文楽で千葉が舞台の作品なんかあるの? あったら千葉も馬鹿にならんなあと思って授業に臨んだのですが、結果から言えば、能はファウルチップが数回程度。有名な「隅田川」は武蔵と下総の境ですが、今は完全に東京だしなー。「七騎落」は石橋山で敗れた頼朝が海路、安房へ遁走した時の話ですが、物語が展開しているのはほとんど海上で、安房には無事に着いただけ。それにしても、結果として討たれた父や兄が落ちた時と同じ8人なのは縁起が悪いから、誰か一人を船から降ろせだと? 頼朝ってのはいけすかない奴だと思ってたけど、ここまでひどい野郎だとは知らなかった。
 文楽には「日蓮聖人御法海」という千葉県で生まれた日蓮の生涯を描いた作品があり、これは間違いなく千葉もの。でも、日蓮が活躍するのは鎌倉が中心で、千葉での話というと、婚約不履行とかろくなエピソードじゃないです。
 歌舞伎は、いわゆる「切られ与三郎」が堂々たる千葉ものです。しかし、この話も与三郎とお富さんが出会って密通の挙げ句、与三郎がめった斬りにされ、お富さんが入水自殺を図ったのが木更津ってだけで、クライマックスの「久しぶりだなお富さん」は鎌倉でした。この強請をやった与三郎と蝙蝠安の墓のある寺が木更津にあったから、てっきり木更津で展開する話だと思い込んでいました。
 「南総里見八犬伝」。これぞ文句なしの千葉ものかと思いきや、千葉が舞台なのは始まりと終わり、それに行徳生まれの犬田小文吾絡みのいくつかだけで、大半は全国展開してるんですな。
 結局、千葉で完結しているのは「天保水滸伝」ぐらい。やくざ同士の喧嘩しかないのかよ、千葉って。柄の悪いのは昔も今も、ってことかい?
 千葉で育ち、今も暮らしている者としてはちょっとがっかりでしたけど、視点を千葉ゆかりの人とすればどうでしょうか? 例えば、初代市川團十郎は成田の出身(だから「成田屋」なのか)といい、その辺りから展開していけば、千葉もまだ捨てたもんじゃないのかもしれません。

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2006年11月 5日 (日)

面接授業

 11月5日(日)
 昨日、今日と放送大学東京文京学習センター で面接授業を受講。「予防重視のリスクマネジメント」というタイトルで、雪印食中毒事件、松下電器石油温風ヒーターのリコール、JR福知山線脱線事故などを題材に、リスクの洗い出しとその軽重を判断して現実的な予防対策を立て方を学ぶ。
 今回は病院関係の女性の受講者が目立った。看護師だろうか。激務の合間を縫って、おそらくは日頃抱えている問題点の解決策を求めている姿勢には、頭の下がる思いがする。
 それはさておき、文京学習センターがあるのは昔、東京教育大学だった場所。ここへ来るのも3年ぶりだろうか。茗荷谷駅を出て、かつては駅前のランドマークだった?同潤会大塚女子アパート が取り壊されて跡形もなくなっていたのを目の当たりにすると、やはり寂しい気がした。

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