2016年6月 4日 (土)

朝日新聞連載「未確認生物をたどって」

 朝日新聞5月23日夕刊から始まった連載「未確認生物をたどって」が昨日3日、計10回で終わりました。
 いい歳をして何ですけど、これくらい楽しみだった連載記事は東日本大震災の後、ありませんでした。朝日新聞はいろいろと叩かれもして大変ですが、こうした連載ができるだけの懐の深さや、取材力と筆力のある記者がいることは大したものです。
 タイトルカットにはありませんでしたが、最終回の末尾に「第1部はここまで。読者のみなさん、またお会いしましょう。」とあり、「第2部」がいつか始まる期待を抱かせています。
 デジタル版のスクラップブック機能を使って記事を保存したものの、著作権の関係で写真を見られない回が多いのは残念。こういう点は記事をまるごとスクラップして残せる紙メディアの強みでしょうか。

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読売夕刊「追悼抄・江戸家猫八」

 もう一つ、新聞記事の話を。
 読売新聞の土曜夕刊に「追悼抄」というページがあります。最近亡くなった著名人を振り返る記事で、4日夕刊では動物鳴きまね芸人・四代目江戸家猫八さんが取り上げられていました。
 正直に言うと、この「追悼抄」はいつも読んだり読まなかったりです。四代目猫八さんは「小猫」だった頃からテレビでよく見ていたとはいえ、「猫八」になった頃にはほとんど関心も薄れていたので、そのままページをめくってしまいそうなものでしたが、何となく気になって読み始めると…。
 記事の最後の段落に、長年の知り合いとして「元競馬騎手の岡部幸雄さん」が登場したのです。家族以外で猫八さんの病名を知らされていた数少ない一人だったといい、競馬ファンとしては驚きでした。
 どうして今回、急にこの記事を読む気になったのかというと、根拠はないのですが、紙面を開いた時、「元競馬騎手」「岡部幸雄」という文字を無意識のうちに捕らえていて、それで読もうかと思った気がしてなりません。
 こういうのも、紙面でなければ起こらない現象でしょう。

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2015年1月17日 (土)

あの日から20年…阪神大震災

 あの日は、引っ越してきたばかりの新居、ここ無頼庵から初めて出勤する日でした。
 朝のニュースで兵庫県で大きな地震があったのは知っていたものの、火災が何か所かで起きたぐらいのことしかわかりませんでした。
 午前9時過ぎだったか、出先のテレビで映し出されているのが何なのか、しばらくわかりませんでした。横倒しになった阪神高速道路だとわかるのに、随分かかったように思います。最初に「死者3人」と流れ、20分もしないうちに「30人以上」となり、それから30分もたたぬうちに「300人以上」と、ケタが一つずつ上がっていったのを聞いて、恥ずかしながら初めて想像もつかない大惨事だと認識した次第です。
 白状すれば、「こっちじゃなくて…」と思ってしまいました。35年ローンを組んで買った新築マンションに引っ越した矢先、建物が崩壊してしまって、ローンだけが残っていたら…。現に、そうした状況に追い込まれた方々はたくさんいたはずです。
 震災から4か月ほど後、仕事で約1週間、神戸に滞在しました。どれが本当にまっすぐ立っているのかわからないくらい、あちこちのビルが傾いていました。傾いていても立っているだけマシで、壊れたコンクリートの塊の山と化していたデパート、ブルーシートだらけの屋根などを見るにつけ、街はそれなりに落ち着きを取り戻していたのに、足が震えました。
 10年前、大阪で勤務することになり、既に「観光イベントと化してしまった」との声も出ていた神戸ルミナリエを見に行くと、東遊園地にある「希望の灯かり」の前で、若いお母さんが小学校に入ったばかりぐらいの子供に、多くの人々が命を落とし、街が焼けてしまったことを話して聞かせていたのが印象に残りました。
 神戸の街は新しい建物が立ち並び、見た目の復興は目ざましいものの、何もかもうまくいったわけではないことは、今日の各紙、テレビが報じている通り。そして自分も、あの日に身勝手な思いをした自分だったことをごまかせないよう、ここに記しておく。

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2014年10月 9日 (木)

産経新聞前ソウル支局長の在宅起訴

 もう30年近く前、確か毎日新聞の元ソウル特派員の方が書いたコラムを読んで、深く思いを巡らせたことがあります。
 軍事政権下だった頃のソウル。普段は日本のことを快く思っていない韓国の新聞の老記者がいて、どうも付き合いづらかったのだけど、ある政変が起きた時、この老記者が近づいてきて、囁いてくれたという。
 「今起きている事実を、日本の新聞にありのまま書き残してください。残念ながら私たちにはできない。だからこそ、あなたたちが書いてくれた記事が後世、正しい歴史として伝わっていくんです」
 およそ、こんな内容だったと思います。
 韓国が民主化して20年以上たちました。今回の産経新聞前ソウル支局長の在宅起訴という出来事そのものは、韓国のメディアも後世に伝えられるだけの報道はできるようになったのでしょう。しかし、「言論の自由」に対する寛容の低さは、今も変わっていないということなのでしょうか。

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2014年9月27日 (土)

第1回「つながりの会」ゼミ

 加藤秀俊先生の門下生および縁のあった人が年に一度集まる「つながりの会」が、回を重ねて「せっかくだからランチ会だけではなく、先生の謦咳に接する時間も持ちたい」という機運が高まり、数か月に一度、15人程度の「ゼミ」を開くことになりました。
 その第1回がこの日行われ、夜勤前だったので参加させてもらいました。それにしても、学習院大などの門下の皆さんは偉い。僕ら、FBUNKA(=旧ニフティサーブの「現代生活文化研究会」のメンバーは、「ご隠居(=加藤先生)」に、いわば一緒に遊んでもらうことしか考えていないのに、卒業してから30年以上たっていても、結局、勉強サイドに戻ってくるんだから。
 「ゼミ」といっても研究の場ではなく、さりとて世間話の場でもなく、今回は「東と西」というテーマで語り合うことに。主には東日本と西日本の違い、実際の話は東京と京都・大阪、さらには東京・京都、その他の地域の細部にわたる違い、序列化などの話題が尽きることなく挙がってきて、次回もこの続きをやることに。
 冒頭、加藤先生が京都で暮らしていらした当時のエピソードをいくつか紹介してくださった中で、梅棹忠夫さんが「江戸落語のマクラに『大家といえば親も同然』というのがあるが、あれは全くわからん。大家と店子というんは単なる契約関係で、自分は大家に対してそんな卑屈な気持ちは持っとらん」と語っていたというのが強く印象に残りました。
 大阪で暮らした経験で、一番初めに東日本との決定的な違いを感じたのは、賃貸住宅の契約でした。「敷金2か月、礼金1か月、仲介料1か月」はどこでもそうなのかと思い込んでいたら、関西は大違い。100万円もの保証金を払うことは珍しくなく、それが退去する時にも返って来ないのには驚いたものです。その分、借家人の権利は結構強いようで、それが梅棹さんの話にも出ている感じがしました。
 ちなみに、その当時の梅棹さんの大家さんだったのは会田雄次さんだったとのこと。
          ◇
 「つながりゼミ」が始まった直後に御嶽山噴火のニュースが入ってきたのに、スマホはバッグの中だったので気づかず。15時半過ぎに会場の国際文化会館から出た後にようやく気付き、夜勤はいつもより張り詰めた勤務に。

 

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2014年8月12日 (火)

フジテレビ「8.12日航機墜落 30回目の夏」

 フジテレビ「8.12日航機墜落 30回目の夏」は朝から「必ず見よう」と思っていたのに、350mlの缶ビール1本で居眠りをしてしまい、後半の1時間20分ぐらいしか見られませんでした。情けない。
 実に見応えのある番組でした。生きていた4人を助けるために、あれほどの人々がどこまでも労を惜しまずに力を尽くしていたことや、辛すぎる運命を背負いながら暮らしてきた遺族の方々…。見ていて、こみ上げてくるものを抑えきれないほどでした。
 あの日、自分が何をしていたのか、よく覚えてはいません。その1年前、55歳で定年退職した父が嘱託として会社に残っていた1年の勤務を終え、ちょっとした手術のために入院していたか、その準備をしていたこと。なのに、大学で落第してしまったため、1年遅れで4年生の夏を迎えていながら、就職活動といったら教員採用試験を受けた程度だった自分。甲子園でPL学園のKKコンビが活躍していたこと。前の日に河本敏夫さんがオーナーだった三光汽船が倒産したこと。その後はテレビに釘付けだったこと。
 あの日の前後にあったことは覚えていても、「あの日」自体をどう過ごしていたのかとなると…。
 あれから29年。忘れることのできない、自分にとっての別の「あの日」が何日かはできてしまったけど、病気もけがもなく、総じて波風も立たずに暮らしてこられたことの幸福を感謝せずにはいられません。
 事故で亡くなられた方々のご冥福を祈ります。

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2014年5月19日 (月)

人生でたぶん3回目ぐらい

 生まれてこのかた、漫画雑誌を買ったことがほとんどない小生でも、昨今の「美味しんぼ」騒動を見聞きしていると興味を持たない訳はありません。その結末や編集部の見解などを載せて今日発売された掲載誌「ビッグコミックスピリッツ」を買ってしまいました。
 「福島の真実」編というシリーズを全く読んだことがなく、結末だけを見ただけで感想を記すことはできません。ただ、自分が知っている僅かな量の情報の中では、福島第一原発に取材に行っただけの主人公・山岡士郎が鼻血を出すという表現は必要性を感じませんでした。
 取材相手が鼻血を出す場面に遭遇して、そこから取材を深めていくといった表現のほうが、まだ意の通じる気がします。
 そういえば、日本損害保険協会が刊行する「予防時報」2014年4月号 に元NHK記者で江戸川大教授の隈本邦彦氏が書いた「メディアが災害の教訓を伝えることの難しさ」と題したエッセーが載っています。たまたま読んだのですが、「被災者に優しい報道をめざすメディア」「勇気を持って『災害の教訓』を伝えるべき」といった内容には、今回の「美味しんぼ・福島の真実編」騒動にも通じる面があり、興味深いものでした。

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2013年10月30日 (水)

川上哲治氏逝く

 V9巨人の監督だった「打撃の神様」川上哲治さんが亡くなりました。93歳、若い頃に体を酷使したスポーツ選手は案外、長生きできないことが少なくない中、長寿を全うしたのは、やはり超人的な体力の持ち主だったということでしょう。
 川上元監督(我々の世代にとっては監督としての存在感が圧倒的でした)の訃報を伝えるニュースの中で、異彩を放っていたのがテレビ朝日の報道ステーションでした。他局は現役時代や監督当時の映像が中心だったのに対し、「巨人の星」で描かれている川上さんを紹介していたのです。
 子供だった星飛雄馬が家の壁に開けたボール一つほどの穴を通して外の木に球を投げ、跳ね返るボールがその穴を通って飛雄馬の手に戻る神業的な遊びを見た川上さんが、やおら棒を拾って飛雄馬の球を打ち返して穴を通過させた場面。

 驚いた飛雄馬が「誰かが打ち返したんだ」と父・一徹に言うと、
 「そんな真似ができるのは日本じゅうでただ一人、川上哲治ぐらいのものよ」
と一徹がうそぶいたのでした。
 見ていた職場では「そりゃ作り話だろうが」とツッコミも入りましたが、事実ではなく、フィクションとして描かれた場面をもって故人の偉大さを伝えるのは、かつてない報道の手法だと言えます。
 「報道ステーション」のスタッフが、「巨人の星」のエピソードを事実と勘違いして取り上げたのではなければいいのですが…。
 川上さんの訃報とは関係なく、この夜はNHKの「ためしてガッテン」でも「巨人の星」の場面(飛雄馬が恋人の日高美奈から不治の病「黒色肉腫」であることを告げられるシーン)が放映されていて、川上さんと「巨人の星」の縁の深さを感じさせられたものでした。合掌。
 

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2013年8月 1日 (木)

堀内恒夫氏に参院繰り上げ当選資格

 タイトルのニュースは7月31日、自民党の中村博彦・参議院議員の訃報に伴って流れたもの。「あぁ、そういえば3年前の参院選には堀内も中畑も出ていたっけ。中畑はともかく、堀内は今回出ていれば当選したかもしれないのに、自民党も自分の勢いに自信があれば用無しってのはひどいな」と、今更のように思い出したのでした。
 全国紙をすべてチェックしたわけじゃありませんが、このニュースの見出しは堀内氏に重きが置かれ、中村氏の死去は「ついで」扱いが多かったと思います。そりゃ巨人V9のエースだし、前監督だし、知名度は断然上回っているだけに、こうした扱いになるのは無理もありません。とはいえ、亡くなった中村氏にしてみればあんまりな印象もあり、かえって中村議員とはどんな人だったのか気になっていたのですが…。
 1日夕に発売された夕刊フジに、鈴木棟一氏が連載している「風雲 永田町」に「中村博彦議員 無念の死」というタイトルの記事がありました。
 この記事によると、中村議員は厚労族のうるさ型として知られ、自ら設立した社会福祉法人を発展させたのに「非課税でも制約のある社会福祉法人制度ではダメで、福祉事業は株式会社化しないと発展しない」「日本は東南アジアから介護の担い手を入れるべきだ。そうすることで、いずれ日本から東南アジアに介護事業が輸出産業として展開される」といった主張をしていたとのこと。「族」でも役所べったりではなく、役所に物言う数少ない議員だったそう。新しい福祉政策作りを仕上げることを前にした「無念の死」だったようです。
 政治家たる者、やはり振り返ってもらえるだけの実績や活動を持っていないといけません。

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2012年12月28日 (金)

松井秀喜選手の引退発表

 松井秀喜選手が引退を発表しました。ファンとしては、ジャイアンツに復帰することなく、またグラウンドでの引退セレモニーもないことは、何ともさびしい限り。

 一ファンに過ぎない僕には松井選手との個人的なつながりなどはないものの、変なかかわりがありました。
 週刊文春やNumberなどで野球に関するコラムを書いている小関順二さんが主宰している「模擬ドラフト会議」というイベントがあります。本物のドラフト会議の前に、熱心な野球ファンが各球団の幹部やスカウトになったつもりで、その年の新人選手を指名していくというお遊びですが、たまたまそのメンバーだった方のお誘いを受けて1992年の模擬ドラフトに参加させてもらいました。
 言うまでもなく、この年の目玉は松井選手。初めて参加したというのに、その場の行きがかり(ネクタイをしていた程度のこと)から、僕は仮想「読売巨人軍」の球団幹部席に座ることになったのです。スカウト役は4~5人いて、皆さん地方のノンプロ選手の情報にまで精通していて驚いたこと。当然、1位指名は松井選手で一致し、誰がくじを引くのかを決めるのが僕の役割でした。
 で、何となくいい雰囲気を感じた若い男性にお願いし、確か本物のドラフト会議より多い6球団の重複指名の中、この方が見事に松井選手を引き当ててくれたのです。仮想「読売巨人軍」テーブルはもちろん大騒ぎ。
 この様子が取材に来ていた日本テレビの「独占!!スポーツ情報」という番組でドラフト直前の日曜日に放映されたため、次の日からしばらくの間、「テレビ見たよ、オーナー」とからかわれて恥ずかしかったものです。実際に松井選手が4球団の重複指名を受ける中、巨人が交渉権を得ることになって、妙な縁を感じたというのが、松井選手とややかかわりのある思い出です。
 お遊びとはいえ模擬ドラフト会議そのものは真剣で、あとは誰を指名したのか全然覚えていませんが、スカウト氏の一人が「大家友和って選手はいいですよ」と力説していたのは印象に残っています。
 翌年から逆指名制度が導入されたため、模擬ドラフト会議もあり方が難しくなったこともあって、僕が参加させてもらったのはこの1回だけ。誘ってくれた方もとうに鬼籍に入ってしまい、おかしな思い出話ができる相手もいないのが、また寂しいと言えば寂しいことです。

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