2016年12月 4日 (日)

面接授業「群馬の考古学 3」

 前橋市の放送大学群馬学習センターで3、4日の二日間、「群馬の考古学 3」を受講しました。
1dsc_0001_11 面接授業を受けた学習センターはこれで7か所目。前橋駅から歩いてみましたが、HPの地図が不出来なせいで道に迷ってしまい、20分ほど遅刻しました。ところが、講師の群馬県立歴史博物館長の右島和夫先生はもっと遅れたので、事なきを得ました。
 群馬で考古学といえば「岩宿の発見」ですが、今回はもっと後の古墳時代がテーマ。群馬県には前方後円墳が数多くあり、太田市の天神山古墳は東日本最大とのこと。って、いつもジョギングしている途中にある古墳じゃん。しかも出入り自由だそうで、今度通ったら探検してみよう。
 この授業を選んだ理由の一つは、同博物館や周辺の古墳を見学することができるからですが、4日朝が8時半集合とのこと。太田から通っていては間に合わないので、急きょ前橋市内のビジネスホテルに電話して予約。見学バス代などを払う際、センターHPの地図にダメ出しをしておこうと思っていましたが、職員の方たちが親切だったので、余計なことは言わないことにしました。
 ある程度、予想というか覚悟はしていましたが、群馬学習センターや宿泊先の周辺には飲食店が少なく、コンビニもろくにありません。昼も夜も、食事はスーパーで買った弁当になってしまいました。
1dsc_0073_11 4日は午前中、県立歴史博物館を自由見学。おそらく、どこの県でも似たようなものだと思いますが、常設展の歴史表示の偏りというか力の入れ所というか、かなり大胆になっています。
 群馬県お得意の古墳文化は長いし、埴輪から何から展示物が多いのですが、平安~鎌倉期はほぼ飛ばされています。謡曲「鉢の木」の舞台は今の高崎市辺りなんだから入れておけばいいのにと思いましたが、創作だからダメか。鎌倉末期からは新田義貞が歴史の中心人物で、足利尊氏なんか存在感ゼロです。仲良くなった高崎育ちの受講生Tさんは「群馬県は新田義貞なんですよね~」といい、よそ者が考える以上に重みがあるらしい。
 戦国期もあってなきが如し。「真田丸」の影響で今後、見直しがあるかもしれません。
 江戸時代、利根川水運の展示はかなり力が入っています。利根川水運は千葉県の関宿から今の江戸川に入っておしまいかと思っていましたが、こんな方まで使われていたとは。館林といえば徳川綱吉のはずですが、なぜかその名はなく、綱吉以外で出世した人の一覧がありました。幕末もちょっとだけ。
 明治に入ると富岡製糸場を中心に養蚕業の繁栄が手厚く、戦前は中島飛行機といった具合。
 ここも周辺に飲食店が乏しく、ミュージアムショップで販売しているパンを買って、公園のベンチでTさんと談笑しながらいただく。「みそコッペ」、なかなかいけます。ショップには浮世絵絵葉書があり、珍しいことに月岡芳年の作品が数種類あったので即ゲットしました。
1dsc_0090_11 午後からは博物館周辺にある古墳数か所を見学。写真は観音山古墳 で、石室内部も見ることができました。
1dsc_0097_11 古墳見学からの帰途、バスの窓から「ショベルカーの展示場」のようなものが見えました。珍しいのですが、よく見ると、内部を取り壊して片づけた店舗の中にショベルカーが置いてあっただけのようです。珍しいことには変わりないでしょうけど。

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2016年4月10日 (日)

第39回池上本門寺花祭り家族健康マラソン

 勤務先の同僚が旗振り役となって放送大学に陸上部ができました。不肖ワタシめも正式に部員として登録されています。関東学生陸上競技連盟にも加入が認められ、まだまだ夢の段階ながら、箱根駅伝を目指すことも可能なのです。
 もちろん、今の部員では無理なので、然るべき才能の持ち主を勧誘していかないとなりませんが…。
 本日の池上本門寺花祭り家族健康マラソンは、放送大学陸上部として初めて参戦しました。参加者5名、いずれも部のユニホームで走ったのです。沿道からも「放送大学頑張れ」と、温かい声援をいただきました。まさか公式の陸上部だと思った人はいなかったでしょうけど。
 それはさておき、池上本門寺の周囲2キロのコースを5周する10キロレースですが、この2キロの中に結構急な下り坂や上り坂があり、相当タフなコースでした。僕らが出場した50歳以上の部の前に40歳代までの部のレースがあり、部員の応援をしながら見ていたら、1週目が最後尾でも11分台と全体がものすごいハイペースで進んでおり、案の定、2週目以降はトップグループを除いてかなりのペースダウンとなっていました。
 スタートの合図がピストルではなく太鼓で、ドン・ドン・ドーンと3回打ったら走り出すというお寺らしい大会です。序盤は抑え目に走って後半勝負、周回コースの前半は下り坂を利して5分30秒前後、上りのきつい後半は6分弱のペースを守って58分41秒でフィニッシュ。部門順位は150人中75位と、ちょうど真ん中でした。
 反省会は、東急池上駅近くの「築地日本海」で。ランニングの後はたいてい焼肉でしたが、寿司もなかなかいいものです。今後の部活動の展開などを話しつつ、いい気分で酔っ払いました。帰りの電車は爆睡でしたが、幸い寝過ごすことなく帰宅しました。
 桜花賞でメジャーエンブレムが3着に残っていてくれれば、言うことなしの一日だったのにな~。
1dsc_0030 初めて訪れた池上本門寺。奥に見える長い石段が激しいアップダウンを予感させました。

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2016年1月10日 (日)

面接授業「人形浄瑠璃『曽根崎心中』を読む」

1dsc_1992  9-10日は東京文教学習センターで、表題の面接授業を受講しました。
 放送大学の学生となって、もう18年がたちました(一度、卒業して再入学)が、今回初めて、講師の先生が遅刻するという事態に遭遇しました。親の脛をかじって卒業した別の大学の学生時代には、こんなことは気にもしなかったのに、自腹を切って通っている今は「何をぶったるんでるんだ」と怒りが沸いてきます。それも2日続きの遅刻だったのです。
 しかし、担当の竹森佳史先生の講義は、そんな怒りを一瞬で忘れさせるほどの卓説でした。
 最近の面接授業は、ほぼ例外なくパワーポイントやビデオの放映があるのですが、今回は全くなし。用意されたのは近松全集やその当時の大坂の地図のコピー程度で、先生の話はあっちへ飛びこっちへ飛び、いつのまにか近松に戻ってくるという具合です。
 「曽根崎心中」は歌舞伎で見たことがあり、話の筋は大体知っているものの、近松の原作を詳細に検討すると、そこに当時の時代背景、殊に貨幣経済の浸透と、それが生み出す矛盾のようなものが数多く盛り込まれていることがわかります。当時の演劇がエンタメだけではなく、ジャーナリズムの役割を担っていたことを、初めて実感させられました。
 近松の原作は大坂三十三か所観音巡りで始まるのですが、文楽ではこの場面が省略されていることを、竹森先生は大いに嘆いていました。確かに、この三十三か所巡りがあると「夢幻能」と同じ構造になり、つい1か月前に起きた心中事件を題材にした戯曲が、現実とフィクションの間を行き交うので、当時の観客に受け入れやすい形になるのがよくわかります。書いていくときりがないのですが、文学にこういう力があるのを知ったのは、目から鱗が落ちる思いでした。
 さて、東京文京学習センターの面接授業となると、お昼はいつもの「きなり屋」。今回は二日続けて出かけ、初日はガーリック炒飯、二日目は酸辣湯麺。来週は千葉学習センターですが、あそこの周辺は食べる楽しみがこれといってないのが少々残念です。

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2015年6月14日 (日)

面接授業「三等船客の幕末明治」

 4年半ほど前、神奈川学習センターで面接授業「横浜の歴史と文化」を受講した時の日記に、「ペリー提督横浜上陸の図」の写真を添えたのですが、この絵に当時の世界情勢が隠れていようとは、全く想像もしていませんでした。
 先週、今週と日曜日に同センターで受講した面接授業「三等船客の幕末明治」は、19世紀半ばから20世紀にかけておきた世界的な移民の動きの中で、日本の開国や幕末、明治新政府の歴史を見つめ直す、興味深い内容でした。岩倉使節団が乗った船は、香港からの中国移民を乗せた船だったなんて、知りませんでしたね~。講師は藤村是清先生。
 その最後の授業で出てきたのが「横浜上陸の図」です。この絵を描いたのは、ヴィルヘルム・ハイネというペリー艦隊の随行員ですが、何とドイツ人。パリ2月革命に影響された1849年のドレスデン蜂起に、作曲家のワグナーらと共に参加したハイネは、結局破れてアメリカへ逃げ、いろいろな経緯があってペリー艦隊の随行員になり、公式記録の挿絵を担当して、その一枚が「横浜上陸の図」なのだそう。ドレスデン蜂起で指導的役割を担ったバクーニン が流刑地のシベリアから逃亡し、函館から日本に入り、1861年に横浜で、再度来日したハイネと巡り合ったと聞かされると、もう大河小説みたいな話です。
 誰が描いたのかなんて気にもしなかった絵にも、突き詰めていくとこんな背景があるのがわかることが歴史の面白さだし、そういう刺激を得られたのは、わざわざ遠出して受講した甲斐があったというものです。
1dsc_1567  ところで、同センターのある弘明寺といったら、「とり忠。」の空揚げ定食。先週、実に3年半ぶりにいただいたのですが、わが心のベストオブトリカラの座はしっかりとキープしていました。今週は、お昼を「チキンステーキ定食」にし、自宅での夕食用に空揚げを買って帰宅。

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2015年5月17日 (日)

面接授業「千葉県の地域社会の変容」

 16~17日は、幕張の放送大学千葉学習センターで表題の面接授業を受講。地元ネタは割と人気があり、大講義室が割り当てられていたから「やはり」と思ったのですが、入ってみると受講者は20人程度で、もっと小さい教室だったら違った展開だったかもしれません。
 講師は千葉大の三宅明正教授。歴史学、とりわけ労働史が専門と言いながら、いきなり「千葉のことはよく知りません」と仰天発言。どうやって、こんなタイトルの授業を進めるのかと不安になりましたが…。
 結果を先に言うと、実に刺激的であり、不満もそれなりに残ったけど楽しかったという、これまでに味わったことのない印象の講義だったのでした。
 最大の不満は、授業のタイトルとは裏腹に、千葉県の地域社会の変容についての説明がかなり薄かった点。千葉県での「変容」といえば高度成長期以降のことだし、常磐線沿線のベッドタウン化とか、八幡製鉄(現・新日鉄住金)君津製鉄所の誘致による木更津地区の北九州化?とか、いろいろな実例はあったと思うのですが、その辺りの説明が通り一遍で終わってしまったのは残念でした。
 しかし、です。その不満を補って余りある刺激があったことも確かです。
 その一。幕末期に多摩地域で新撰組が登場したのは、野菜など商品作物の生産が盛んで豊かになった農民が御家人株を買って武士になり、才覚を発揮する場を得ていく背景があったからですが、似たような条件にあった下総西部でも同じような動きがあったのではないかという示唆です。具体例の紹介はなかったものの、埋もれたままになっている史実がありそうな印象を持ちました。
 その二。「地主制」について、実感のある説明を初めて聞いたこと。地主制というと搾取とか小作争議とか、どうも話が暗くなることもあって、これまで積極的に知ろうと思わずにいたのですが、そうした事実は別として、地主側にも小作側にも「これでいいのか」という悩みというか問題意識を抱えていた例の紹介は、興味深いものでした。
 千葉県での例ではありませんが、貧しい家の子ながら優秀だった大平正芳元首相が東京高商(一橋大)に進む援助をしたのが、旧社会党の成田知巳委員長の父だったのは、運命の交差を感じさせる話です。貧家出身の大平氏が資本家サイドの自民党総裁になり、地主の子だった成田氏が労働者の味方である社会党に身を投じたのは、資本家と搾取される側の対立という単純な構図だけではなかったことを示す、わかりやすい例でした。
 その他、いろいろと刺激を受ける「脱線話」が数多く飛び出し、実に楽しかったのですが、「で、千葉県はどうだったの?」という点ばかりは、満たされませんでした。
1dsc_1553 二日目の17日、こんなトラブルに見舞われました。頻尿問題を抱える身には、若干つらい一日でした。(^-^;

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2015年5月10日 (日)

面接授業「絵画資料から見る歌舞伎の世界」

 9日から2日間、東京・文京学習センターで面接授業「絵画資料から見る歌舞伎の世界」を受講。担当は武藤純子先生
 浮世絵を見るのは好きだし、歌舞伎も時々観に行きます。浮世絵の中でも歌舞伎役者を描いた「役者絵」はあまり関心のなかった分野だし、これを機にいくらかでも見方がわかればと思ったのですが、十分に応えてくれた授業でした。
 役者絵が苦手なのは、浮世絵の展覧会での説明がたいてい「三代目大谷鬼次の江戸兵衛 東洲斎写楽」程度しか書いていないからです。昔の人だから役者本人を知る訳はないし、役名を見たって演目が何だかもわかりません。つまり、説明を読んでも何の手掛かりもつかめないのです。
 武藤先生の授業で良かったのは、江戸時代に役者絵を担った流派が「鳥居派→勝川派→歌川派」と変遷していったことをおさえたうえで、取り上げる役者は「市川団十郎」、演目として「暫(しばらく)」などごく少数に絞り、描かれる対象が時代によってどう変わっていったのかを中心に話してくれた点です。同じ「暫」でも、各代の団十郎の特徴、鎌倉権五郎の佇まいなど、描かれ方に違いがあることがよくわかります。
 役者絵=ブロマイドなのかと思っていましたが、実は「役者絵=ブロマイド+謎解き」というのが通な楽しみ方のようです。団十郎家の三升紋、牡丹の花、「鎌・輪・ぬ(かまわぬ)」の模様などが絵の中にさりげなくちりばめられているのがわかると、見え方がこれまでとは変わってくる感じがします。
          ◇
1dsc_1541  茗荷谷の文京学習センターに行くたびに、ランチは初日がきなり屋、二日目がPANASと決まり切っていましたが、今回も全く同じパターンを繰り返してしまいました。
 きなり屋では新機軸?のガーリック炒飯をいただきました。前回、近くの席で食べている人がいたのを見て、「次こそは」と思っていたのですが、念願を果たせた次第です。
 量が多く、ガーリックも十分に効いています。今回の授業は二人掛けの席を一人で座れる状態だったので、お昼に食べても大丈夫と踏んだものの、ブレスケアなしって訳にはいきませんでした。
1dsc_1544  PANASはネパール人の方が経営しているカレー屋さんで、今回は「椎茸とじゃがいもの薬膳カレー」をいただく。辛いのが苦手な僕にはありがたい食べやすさ。サラダとチャイがついて930円也。釣銭の70円は、ネパール地震募金箱に投入しました。
 前日の京都新聞杯がトリガミじゃなかったら、野口英世博士を派遣することができたのに…。NHKマイルカップも全く外れてしまい、こんなことなら野口博士の行き先を募金箱に変更しておくべきだったと後悔したものの、後の祭りでした。
 授業と馬券はなかなか両立しません。つか、受講している身で競馬の予想なんかしてると罰が当たるってことでしょうか。

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2015年5月 6日 (水)

無為には過ごさず

 計画性のない自分にとって、連休は無為に過ごすためにのみあり、今回のGWもほぼそうなりかけたのですが…。
 5日(火)
 5時半近くに目が覚めると、絶好の薄曇り。サボりたい気持ちに鞭を入れ、朝ランへ。おととい同様、郡ダムまで走って戻る途中、三舟山に登る。急に上りを入れたせいか、両太腿の前側が筋肉痛になっており、今朝は歩いて登りました。
 おととしの大河ドラマ「八重の桜」のロケは三舟山でも行われたとのこと。ちっとも知らなかったな~。
 お昼は君津新橋の近くにある「さがみ」という蕎麦屋で。地元客相手って感じを醸し出す飾り気のない店構えながら、ほとんどのメニューが600円で、しかもコーヒー付きとは、大したコストパフォーマンスだと思います。いただいた鳥南蛮そばは味もそこそこ。鶏肉や絹さやが美味しかった。
 放送大学の授業がネット配信されているのを思い出し、昨年後期にすっぽかしてしまった「歴史と人間」という科目の1~4回目を視聴。またしても何もしないまま連休が終わってしまいそうだった中、一つぐらいは有意義なことをすることができました。
 6日(水)
 今朝はランニングをサボる。罪滅ぼしに、放送大学で今年前期に受講申請した「近代日本政治史」の1~4回目を視聴。
 って、このところ、受講申請をしながら実際は無駄にしていたのを白状したのも同然です。受講を始めた頃は「仕事に関わる知識を補いたい」とか、それなりの目的があったものの、今や惰性で続けているだけで、時々興味のある面接授業を受けることだけが楽しみと、僕にとっての放送大学はカルチャーセンターみたいな存在になっていました。
 放送授業だってもちろん、多少は興味があるからお金を払って受講しているのですが、録画を忘れたりするだけで面倒くさいと思うようになっていました。ネット配信はずいぶん前からあったのですが、使ってみると、自分の空いている時間を有効利用できるのはありがたいものです。
 夕方、日差しもあまりないので5キロちょっとジョギングして、今年のGWはおしまい。

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2014年12月14日 (日)

面接授業「メディアとしての浮世絵版画」

 放送大学東京・文京学習センターで13~14日、「メディアとしての浮世絵版画」を受講。この秋の面接授業は11月の「河鍋暁斎」に続き、浮世絵シリーズです。
 講師は和歌山大学の菅原真弓先生。ざっかけないキャラというか、そうじゃないと浮世絵の研究なんかできないんでしょうけど、「春画」なんかもさらりと紹介してくれました。もちろん、学問的に、です。
 浮世絵は何となく好きなのですが、体系だって勉強したことはありません。それだけに、メディアとしての浮世絵版画を考えた場合、「今の世の中なら夕刊フジのようなタブロイド紙」という菅原先生のたとえは実にわかりやすいものでした。
 浮世絵の主題と対応させると、①美人画=アイドルのグラビア、②役者絵=ブロマイド、③武者絵=現代はないけど、歴史物は一定の人気があるのは同じ、④春画=Hページ、⑤名所絵=旅行記事、といった具合。今あって昔はないのはグルメ関係ぐらいでしょうか。人々の求めるものなんて、何も変わっていないことがよくわかります。
 日本で一番人気の歌川広重、ライフ誌の特集「この千年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」に日本人で唯一選ばれた葛飾北斎、近年大人気の歌川国芳ときて、先生が一番時間を割いたのが「最後の浮世絵師・最初の劇画家」という月岡芳年でした。
 芳年というと「南総里見八犬伝・芳流閣の闘い」の絵しか思い浮かばないのですが、授業で数多く見せてくれた芳年の浮世絵にこの絵が含まれていなかったのは、何とも皮肉な話です。先生ご自身の専門でもあり、芳年は「血みどろ絵ばかりじゃないんだ、写真が印刷できるようになる前の時代、新聞錦絵で西南戦争などを伝え、明治期の風俗を残した絵師なんです」とのこと。
 いつかどこかで芳年の絵をまとまって見られる機会があることを、望むばかりです。

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2014年11月 8日 (土)

面接授業「絵師・河鍋暁斎と幕末明治の画壇

 8日から2日間、放送大学千葉学習センターで面接授業「絵師・河鍋暁斎と幕末明治の画壇」を受講しました。
 河鍋暁斎の名を初めて知ったのは2007年1月、東京・原宿の太田美術館でのこと。この時は北斎の「龍虎図」がお目当てでしたが、暁斎の作品もあり、具体的にどんな絵だったのかは忘れたのに暁斎の名は覚えたのでした。
 次に暁斎の名に出会ったのは2009年12月、京大総合博物館で講演会「ジョサイア・コンドルと日本文化」を聞いた時のこと。鹿鳴館の設計者として名高いコンドルが、何と暁斎に弟子入りしていたとは…。お雇い外国人だから「上から目線」で日本を見ていたとばかり思い込んでいただけに、たまげました。
 そうしたら「じゃ、暁斎ってどんな人?」と調べ事の一つもしそうなものですが、消極的な性格なので何もせずに過ごし、今回たまたま面接授業で取り上げられていたので飛びついた次第です。
 それにしても、受講者が50人以上もいたのには驚きました。暁斎、結構関心を持たれているんですね~。講師は埼玉県蕨市にある河鍋暁斎記念美術館監事の藤田昇先生。こうした講義は初めてと言いながら、だいぶ準備をなさっていて、かなり凝ったパワーポイントでの提示をしていました。
 しかし、パワポってのは板書が追いつかないんだよね~。教える側のツールが進化している以上、こちらも板書代わりにデジカメで撮影して対抗?したのでした。僕一人でしたけど。
 歌川国芳の弟子でもあり、狩野派を受け継いでもいる暁斎の絵は、戯画あり、おどろおどろしい絵あり、正統派の美人画あり、渡辺崋山の「鷹見泉石像」を思わせる「山岡鉄舟像」もありで、呆れるくらいの幅広さです。コンドルが弟子入りを志願したのも納得させられます。
 それほどの暁斎が明治22年の没後、どうして国内では埋もれてしまったのか。
 西洋での「ジャポニズム」は庶民風俗を描いた浮世絵が高く評価されているのに、明治以降の美術行政は旧武士階級出身者が担ったため、浮世絵師でもある暁斎は軽く見られたことが大きく響いたようです。「近世画技の宝庫」とまで呼ばれる超絶技巧の持ち主である一方、代表作が思い浮かばない点も、日本ではマイナスだったかもしれません。
 いろいろなことを考えさせられた、興味深い面接授業でした。
1064_2 こんな感じです。パワポでの準備も相当大変ですが、もっと記述の多いページだとメモはお手上げです。

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2014年6月15日 (日)

面接授業「史料で読む近世日本の対外関係」

 14日から二日間、放送大学千葉学習センターで面接授業「史料で読む近世日本の対外関係」を受講しました。面接授業は1年3か月ぶり…、サボってたなぁ。
 講師は明海大学の岩下哲典教授。著書の「江戸の海外情報ネットワーク」(吉川弘文館)が教科書に指定されていたのをすっかり忘れていましたが、そうした受講生が少なからずいたので、大きな不自由はありませんでした。
 われら昭和30年代生まれとそれ以降の世代で、高校までに習った日本史の中で評価がだいぶ異なっているのが「鎖国」です。習う中身は同じとしても、1980年代以降は「四つの口」論、つまり鎖国当時でも長崎だけではなく、蝦夷、対馬、琉球の合わせて四つのルートで対外交易をしていて、それに伴って海外情報が入ってきていたという考え方が、われらの時代よりも大きく評価されているのです。
 徳川吉宗の時代にゾウが江戸にやってきた話は教科書などで見た覚えはありますが、何でゾウを輸入したのかなんて考えたことはありません。これは、吉宗将軍が「見たい」と望んだから輸入が実現し、しかも長崎から江戸まではゾウも歩きだから、街道筋の諸藩は大変だったろうけど、民衆も珍しいゾウを見ることができて「将軍様は大したもの」と評判を取れちゃったという「おまけ」つきだったとのこと。
 物事、突き詰めていくと、いろいろと面白い話が埋もれているものです。
 岩下先生の授業で最も興味深かったのは、「アヘン戦争情報は本当に衝撃的だったのか?」という話でした。アヘン戦争で清がイギリスに負けて香港をとられてしまい、「やがて日本も西欧列強に蹂躙されてしまう」と国防意識が高まったというのが定説です。
 それはその通りとしても、情報がもたらされてすぐに反応したのではないというのが、岩下説の核心。アヘン戦争情報は結果がいきなり届いたのではなく、開戦前の不穏な段階の話から入っていたのに、水野忠邦率いる幕閣は「蛮社の獄」に関心が向いていて、史料上では無反応状態だったとのこと。
 その後、清を打倒した西洋砲術の採用を進言した高島秋帆による演習だって、大砲輸入で長崎貿易を潤おわせたい意図もあったろうし、水野も長崎の富を吸い上げられれば言うことなしと、利害は一致しており、水野はアヘン戦争情報を自らの息のかかった範囲にしか漏らしていなかったのではという。危機感より目先の利益。アヘン戦争情報が一般に広がったのは、上知令の失敗で水野忠邦が失脚し、情報統制が緩んだ後のことだったとか。
 この辺りは見方の問題としても、「情報」を商売のタネにするのを始め、どう利用するのかをあれこれと考える人々がいたという点については考えさせられました。
 また、こうした情報が伝わっていくのに、蘭学といった学問ばかりでなく、漢詩や俳句といった趣味のグループによるネットワークが大きな役割を果たしていたという視点もなかなか興味深いものでした。わが勤務先でも「喫煙所」が結構な情報交換の場となっていることを思い合わせると、さもありなんと感じさせられます。
1dsc_0923 授業とは関係ないけど、学習センターの北西にあるイトーヨーカドーの南側入り口にある自動ドアはちゃんと開閉しますが、役には立っていません。何年も前から、いつかは周囲もガラス張りになるのだろうと思っていたけど、その気配全くなし。初めから「トマソン」として作られている極めて珍しい例では。

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