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2009年2月28日 (土)

妙心寺展

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 会期末の3月1日が明日に迫り、大慌てで東京国立博物館で開かれている特別展「妙心寺 」を見に行く。昨年暮れに上洛した折、予習代わりに妙心寺に詣でた というのに、あやうく予習を無駄にしてしまうところだった。
 最初の展示は、昭和天皇の宸翰「無相」。昭和天皇自筆の文字は、ほかに日本国憲法原本に記された御名ぐらいしか一般に明らかになっているものはないのだそう。何となく、真面目なご性格が表れている感じがします。
 妙心寺は花園法皇の帰依によって始まったとのことですが、その法皇の宸翰も何点か見られました。筆ペンを使ってさえ金釘流以下の僕が言うのは恐れ知らずにもほどがあり過ぎですけど、あまり上手なお手だとは思えませんでした。
 秀吉最初の子だった棄丸の像や、棄丸所用の玩具船などは、妙心寺と豊臣家との縁の深さを感じさせます。肖像画もありましたが、秀吉の義姉、いわゆる「ねね」さんのお姉さんご愛用の食器セット「菊桐紋蒔絵膳椀」が一番の驚きでした。
 箸なんか、調理用の菜箸ぐらい長かったし、飯椀だって丼ぐらいの大きさだと思う。本当に女性用なんだろうか。器が大きいだけで、盛る量は少なかったとしたら、あの箸ではさぞ食べにくかったでしょう。身分が上がるのも考えものです。

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未来を開く福沢諭吉展

 「妙心寺展」を見学し終わったのは3時前。お腹がすいていたけど、平成館の前にある表慶館で開かれている「未来を開く福沢諭吉展 」を引き続き見学していく。
 会場が狭いせいもあって、妙心寺展よりもずっと混雑していた。信心の篤い門徒?が依然として多いせいもあるのだろう。
090228_2  先日、読み終えた歴史作家の中村彰彦氏と山内昌之・東大大学院教授(イスラーム史専攻)の対談集「黒船以降 政治家と官僚の条件」(中公文庫)に、「福沢諭吉の『瘠我慢の説』を検証する」という一節がありました。要約すれば「諭吉の業績は評価するけれども、その人間性には首を傾げる部分もなくはない」といったところ。例えば、幕府に雇われて渡米(感臨丸より後のこと)した際、相当額の公金着服をしたと思われる(大政奉還でうやむやになったらしい)のに、そうした倫理感覚の持ち主だった諭吉が「旧幕臣だった榎本武揚や勝海舟が新政府でも高官に就き、いわば平然と二君に仕えるのはおかしい」と批判するのは、あまり気分のよくないエピソードだというわけです。
 本展ではその「瘠我慢の説」と、それに対する勝海舟の返答の手紙(「反論する気にもなれないから、勝手に公表してください」といった内容)が展示されています。この件についての見解はともかく、読み終えたばかりの話の実物を目にするのは、何だか妙な気持ちでした。
 これを書いているのが当日ではないことがバレますが、3月1日の毎日新聞で池内紀さんが「幕末明治の肖像写真」(角川学芸出版)の書評 で、「写真という新しいメディアの誕生と日本の近代化がほぼ同時期だったのは、意味の深い偶然だった」と書いています。諭吉は無類の写真好きで、あちこちで写真を撮っており、その多くが展示されているのも面白い。中でも、「典型的日本人」として丁髷姿の諭吉の写真がパリの人類学博物館に残されていることは興味深かった。撮った方も、まさかこいつが後世に名を残す人物だったとは夢にも思わなかったろうに…。
 諭吉の関連資料ですが、木村摂津守の英文名刺、コッホの加筆がある北里柴三郎の講演草稿なども一見の価値ありだと思います。3月8日まで。

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2009年2月25日 (水)

きなこ豚

 職場の同期U氏とともに、23日から2泊3日の「ゴルフ宮崎キャンプ」を敢行。昨年はツアーで行こうとしたものの都合がつかず、「それならうちの実家に泊まり込みでやろう」というU氏のお言葉に甘えて実現と相成りました。
 宮崎県に来たのは初めて。ほぼ雨という予報だった天気は、強運にも3日とも、ゴルフをしている間は降られずじまいだった。2ラウンド半で腕が上がったかどうかはともかく、下手クソな僕に付き合っていただいたU氏とお父上、ご厄介をかけたお母上には感謝、感謝です。
 宮崎といえば地鶏、なのですが、今回は「きなこ豚 」のおいしさにたまげたのでした。2泊目の晩、U家でしゃぶしゃぶをごちそうになり、初めは宮崎牛、それから豚しゃぶに切り替えたのですが、そこそこお腹が満ちて来てからいただいたこの「きなこ豚」が、何ともおいしかったこと。豚しゃぶは淡白な印象がありますが、きなこ豚はこくのある味でしつこくなく、臭みもありません。ほっといたら食べ過ぎてしまいそうでした。普通の豚肉に比べると、お値段は高めだそうです。ごちそうさまでした。
 調べてみると、都城市にある「はざま牧場」のブランドで、その名の通り、きなこを食べさせて肥育しているようです。地鶏のように、県が後押しするようなブランド展開は難しいかもしれませんが、お取り寄せの価値はあると思います。

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2009年2月12日 (木)

曽我梅林

 3連休で箱根に静養に来たついでに、小田原市の曽我の梅林 へ梅見に出かける。
 小田原駅からバスで40分ほど、JR御殿場線の下曽我駅近くで降り、案内板に従っててくてく歩いて行くと、原会場と呼ばれる梅林が見えて来た。祝日のきのう(11日)は流鏑馬が行われて賑やかだったのだろうけど、人込みに出かけるのは気乗りしなかったので、一日ずらした。今日も平日とはいえ、そこそこの人出ではあったけど。
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 2月としては気温が高めだったせいか、早咲きの種類(一重野梅かな?)はこの通り、ほぼ満開。もともと、実を収穫するために植えられているのか、梅の種類は少ないけれども、豊かな香りが早春の訪れを感じさせてくれる。
 さらに歩いて行くと、別所会場という、さらに広大な梅林があった。ともかく広くて、ひと回りしようとしたら1時間はかかるんじゃないかと思う。原・別所会場とも、上り下りはあまりなくので歩きやすい。
 この日は雲があまりなく、満開の梅林越しに富士山を望めるかと期待したけど、暖かくなったせいで、見えることは見えたものの、くっきりとした姿ではなかった。

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2009年2月 7日 (土)

名所図会と広重

 表題の講演会を聞きに、午後から幕張の放送大学千葉学習センターへ行った。講師は国立歴史民俗博物館の大久保純一教授。100人収容の会場は満席だった。
 「広重は東海道五十三次のほとんどを現地を訪れずに描いた」と、衝撃的な話でした。日本橋や品川は写実的で叙情に溢れているのに、京都に近づくほどリアリティーが乏しくなるというのです。かつては、広重は東海道を旅して描いたというのが定説でしたが、ここ10年ほどで進んだ研究により、五十三次を描いた段階では行っていないという見解が主流になったとのこと。
 典型的なのは「庄野」。突然の雨の坂を旅人や地元の人が行き交う、五十三次の中でも一二を争う名作ですが、現地に行くと「あの坂はどこ?」って戸惑うくらい、真っ平らな所だそうです。
 では、広重はどうやって五十三次などを描いたかというと、18世紀末から19世紀にかけて発達した「名所図会」という、当時の旅行ガイドに添えられていた精密な俯瞰図を参考にしたらしいのです。いくつかの絵について分析すると、各地の名所図会の俯瞰図を基に、特定のポイントから眺めた風景を再現しているとしか思えないことがよくわかります。
 東海道どころか六十余洲名所図会まで描いているのを思えば、あの時代、全部を見て回れるはずがないとは想像がつきますが、最大の傑作からして「パクリ」が多いとはねぇ〜。ただし、この当時、「パクリ」は決して悪いことではなく、むしろパクられるくらいのほうが名誉でもあったとのこと。本歌取りみたいなものでしょうか。
 「本当は新潟じゃないの?」疑惑の「蒲原」について、残念ながら大久保先生の見解を聞くことはできませんでしたが、こういう説を耳にすると、「やはりそうか」と思わずにはいられません。
 ところで、昨年8月に歴博で「江戸の旅から鉄道旅行へ」をテーマにした特別展がありましたが、確かあの時には旅日記の紹介はあったものの、名所図会についてはあまり触れていませんでした。この衝撃的な説も紹介していればもっと興味深い内容になっていたはずなのに…。歴博も案外、縦割り組織なんでしょうかね〜。

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